院長ブログ
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BLOG院長ブログ
2017.03.10
今日、3月10日は、
出身大学の大先輩で、
横村医院の前々院長、
祖父、横村庄一郎の命日です。
私は小学校入学前まで、祖父と同居し、
「開業医」として働く、その後ろ姿を何気なくながめていました。
当時の記憶はわずかしかありませんが、
その頃は、静かにしていないと怒られるような雰囲気を持つ、
「怖い」ひとでした。
やがて、父の転勤に伴い、
年に数回、短時間会うような関係になり、
その頃からは、
“笑顔”しかない、
「優しい」おじいちゃんに変わっていきました。
太平洋戦争開戦の1941年12月8日、
真珠湾攻撃が行われる数時間前に、
祖父は軍医としてマレー半島に上陸しました。
「戦争は真珠湾攻撃で始まったんやないで(笑)」
「おじいちゃんはその何時間か前には、もうマレー半島に上陸してたんや(笑)」
「真っ暗な夜中に、小舟に乗って、敵地にいざ上陸っていう、その時はほんまに怖かったで(笑)」
祖父はそこまでは話してくれましたが、
上陸以降、終戦までの筆舌に尽くしがたい体験、
米軍の捕虜となり、
やっとの思いで帰国するまでの、
想像を絶する地獄のような出来事の数々について、
私にはひとつも話しませんでした。
ただ、
ひたすら、
宙を見つめ、
何かを考え、
煙草に火をつけ、
消していることがありました。
何かを忘れたいかのように。
私は9才の時、母校の大学病院に1ヶ月ほど入院。
一時は生死の境をさまよい、
回復するまでの間、
祖父は忙しかったとは思いますが、
ほぼ毎日のように面会に来てくれました。
年月が過ぎ、
大学入試、
なんとか祖父の母校に入学することができました。
卒業式の日、
両親は仕事だったため、
家族では祖父が1人、
会場の一番後ろで私の卒業を祝ってくれました。
真白な白髪でそっと見守ってくれていた姿は、
今も心に深く刻まれています。
翌年、研修医になった私は、
祖父が切除不能の肺扁平上皮癌と診断されたと知らされました。
その当時の私の入局した研修先(内科)は、
今のドラマや映画にでてくるような、
イケメンと綺麗な女医さんが、
呑気に楽しんでいるような現場ではなく、
朝は7時までには出勤、
朝食前の採血は研修医の仕事、
終わるのは午前2時、
毎日睡眠時間は3~4時間、
もちろん残業代などありません。
1年365日休日なし。
1日中、先輩医師の指示通りに機械のように扱われ、
24時間、病棟から容態の変わった患者さんの病状につき、
いつ連絡・呼び出しがあるかわからない、
あえて今の言葉で言うなら、
「ブラック◯◯」、
などはるかに通り過ぎていました(黒よりもっと濃い色ってありますか?)。
あまりに過酷だったので、
体力のない私は、
年末になると、残念ながらアトピーが悪化し、
やむをえず1週間ほど入院してしまいました。
こんな生活をしていると、
自分が呼吸をする、
心拍数がゼロにならないようにする、
とにかく生きて、
眠った次の日、目が覚める、
のが精一杯で、
家族がどう困っているか、
自分が何をするべきか、
最も大切なことを考える余裕が全くありませんでした。
毎年、3月10日になると、強く思い返してしまうことがあります。
祖父が息を引きとった時、
私は同級生の代理で行った医療機関で勤務中でした。
自分は医師になっているのに、
息をひきとる時、
あんなに毎日のようにお見舞いに来てくれていた、
祖父の傍にいることすらできませんでした。
祖父が入院し、
なくなるまでの数ヶ月間、
たとえ、寿命を延ばすことができなかったとしても、
どうして仕事を蹴ってでも、
お見舞いに通い、
毎日、祖父に言葉をかけ、
話を聞くことができなかったのか。
最後の意識が遠のくその時、
隣にいることができなかったのか。
その選択肢を選ぶ余裕がなかった自分が、
毎年、情けなくてたまらなくなります。
せっかく医師免許証まで取得することができて、
学生までの自分とは何か違うコミュニケーションができたはずです。
忙しい、抜けられない、なんていうのは、
今から思えば小さな言い訳です。
本当に「子供」でした。
今、
祖父の働いていた、
横村医院の診察室で、
このつたない文章を書いています。
ここで診療が行えるのも、
祖父のお陰です。
感謝してもしきれない、
特別の感情があります。
これからも、
毎日、
祖父の働いていたこの場所で、
何よりも戦争のない平和を願っていた祖父の魂を引き継ぎ、
ベストを尽くそうと思います。