院長ブログ
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魂
今日、3月10日は、
出身大学の大先輩で、
横村医院の前々院長、
祖父、横村庄一郎の命日です。
私は小学校入学前まで、祖父と同居し、
「開業医」として働く、その後ろ姿を何気なくながめていました。
当時の記憶はわずかしかありませんが、
その頃は、静かにしていないと怒られるような雰囲気を持つ、
「怖い」ひとでした。
やがて、父の転勤に伴い、
年に数回、短時間会うような関係になり、
その頃からは、
“笑顔”しかない、
「優しい」おじいちゃんに変わっていきました。
太平洋戦争開戦の1941年12月8日、
真珠湾攻撃が行われる数時間前に、
祖父は軍医としてマレー半島に上陸しました。
「戦争は真珠湾攻撃で始まったんやないで(笑)」
「おじいちゃんはその何時間か前には、もうマレー半島に上陸してたんや(笑)」
「真っ暗な夜中に、小舟に乗って、敵地にいざ上陸っていう、その時はほんまに怖かったで(笑)」
祖父はそこまでは話してくれましたが、
上陸以降、終戦までの筆舌に尽くしがたい体験、
米軍の捕虜となり、
やっとの思いで帰国するまでの、
想像を絶する地獄のような出来事の数々について、
私にはひとつも話しませんでした。
ただ、
ひたすら、
宙を見つめ、
何かを考え、
煙草に火をつけ、
消していることがありました。
何かを忘れたいかのように。
私は9才の時、母校の大学病院に1ヶ月ほど入院。
一時は生死の境をさまよい、
回復するまでの間、
祖父は忙しかったとは思いますが、
ほぼ毎日のように面会に来てくれました。
年月が過ぎ、
大学入試、
なんとか祖父の母校に入学することができました。
卒業式の日、
両親は仕事だったため、
家族では祖父が1人、
会場の一番後ろで私の卒業を祝ってくれました。
真白な白髪でそっと見守ってくれていた姿は、
今も心に深く刻まれています。
翌年、研修医になった私は、
祖父が切除不能の肺扁平上皮癌と診断されたと知らされました。
その当時の私の入局した研修先(内科)は、
今のドラマや映画にでてくるような、
イケメンと綺麗な女医さんが、
呑気に楽しんでいるような現場ではなく、
朝は7時までには出勤、
朝食前の採血は研修医の仕事、
終わるのは午前2時、
毎日睡眠時間は3~4時間、
もちろん残業代などありません。
1年365日休日なし。
1日中、先輩医師の指示通りに機械のように扱われ、
24時間、病棟から容態の変わった患者さんの病状につき、
いつ連絡・呼び出しがあるかわからない、
あえて今の言葉で言うなら、
「ブラック◯◯」、
などはるかに通り過ぎていました(黒よりもっと濃い色ってありますか?)。
あまりに過酷だったので、
体力のない私は、
年末になると、残念ながらアトピーが悪化し、
やむをえず1週間ほど入院してしまいました。
こんな生活をしていると、
自分が呼吸をする、
心拍数がゼロにならないようにする、
とにかく生きて、
眠った次の日、目が覚める、
のが精一杯で、
家族がどう困っているか、
自分が何をするべきか、
最も大切なことを考える余裕が全くありませんでした。
毎年、3月10日になると、強く思い返してしまうことがあります。
祖父が息を引きとった時、
私は同級生の代理で行った医療機関で勤務中でした。
自分は医師になっているのに、
息をひきとる時、
あんなに毎日のようにお見舞いに来てくれていた、
祖父の傍にいることすらできませんでした。
祖父が入院し、
なくなるまでの数ヶ月間、
たとえ、寿命を延ばすことができなかったとしても、
どうして仕事を蹴ってでも、
お見舞いに通い、
毎日、祖父に言葉をかけ、
話を聞くことができなかったのか。
最後の意識が遠のくその時、
隣にいることができなかったのか。
その選択肢を選ぶ余裕がなかった自分が、
毎年、情けなくてたまらなくなります。
せっかく医師免許証まで取得することができて、
学生までの自分とは何か違うコミュニケーションができたはずです。
忙しい、抜けられない、なんていうのは、
今から思えば小さな言い訳です。
本当に「子供」でした。
今、
祖父の働いていた、
横村医院の診察室で、
このつたない文章を書いています。
ここで診療が行えるのも、
祖父のお陰です。
感謝してもしきれない、
特別の感情があります。
これからも、
毎日、
祖父の働いていたこの場所で、
何よりも戦争のない平和を願っていた祖父の魂を引き継ぎ、
ベストを尽くそうと思います。